誰もが被害者にも加害者にもなりうるという視点


突然、おじさんに抱きつかれて固まった。

柵もない断崖絶壁の端っこで、眼下に川。

固まりながら、考えていた。

「ここで騒いで崖下におじさん落としたら、あたし加害者だよね。
逆に落とされたら、あたし被害者でしょ…。

か、火曜サスペンス劇場だ…」

学生時代のこと。

陶芸にはまり、青春18きっぷ片手に窯元を巡る一人旅の途中だった。

唐津、備前、信楽など、いずれも訪ねた窯元は山奥にあることが多かった。

結局、その道案内してくれた地元のおじさんは、
正気を取り戻し、腕を離してくれて、事なきを得たのだが。

魔がさす

「君と話をしていたら突然、気持ちが若返って…申し訳ない。

私は怪しいものではなく、君と同じ年頃の娘もいる、どこどこ町の誰々というもので…」

と言って、ポケットから自分の住所の書いてある封筒を出して見せながら自分自身に焦っている様子だった。

こういうの「魔がさす」っていうんだろうな、と当時の私が思っていたのを記憶している。

それ以来、私は

「いやぁ、誰でもいつ加害者になるか被害者になるか、わかんないっすよね」

と思っている。

うちの子に限って

この半年余り、学校内外の色々な立場の保護者の話を聞く機会があった。

「絶対に、うちの子は加害者には、なりません。なるはずがありません。」

とか、

「うちの子は、いつでも被害者ですから。自信があります。」

とか、逆に

「どうせ悪いのは、うちの子ですから、うちの子がやったに決まってる。」

とか、

絶対にどちらかだと断言するのを色んな場で何度も耳にした。

絶対に…という思い込み。
それが、物事を見えなくしているのかもしれない、と度々感じた。自身にも絶対はないよ、と言い聞かせた。

自分の子どもを盲目的に愛することは素晴らしいことだし、子どもを信ずることは大事なことだ。

でも、色んなものが表裏一体で存在するという視点を持たなかったら、そこには大きな落とし穴がある。何も教育に限ったことではないけど。

もちろん被害者にも加害者にもならない、どちらでもないのが一番で、今迄もこれからも保護者仲間や先生達と共に目指しているのは、どの子も被害者にも加害者にもしない、ということだ。

ダークサイド

私が、ずるして怠けまくったり、悪いことを企んだり、毒吐くと

子どもらが「あ!悪いみなこさん出た!」と言う。

「ふふふふふ、悪いみなこさん出ました…

ジャンジャンジャーン♪ジャンジャジャ〜〜(ダースベーダのテーマ)」

「キャー」

というやり取りすることが、よくある。

悪いみなこさんと良いみなこさんが、どちらも登場するのだ。それが私。

どっちもあり得るとか、どっちの要素も持ってるという自覚と視点。
それが、自分がダークサイドに落ちないためにも、誰かからダークサイドを引き出さない為にも必要な視点のひとつでないかと思う。
いつ頃、子どもに自覚させる必要があるのか、正直わからない。

でも、子どもを信じながら盲目的に信じない、という視点を大人が持つことが、子どもを救うのではないか、などと考えている。

なーんていいながら、
無防備に他人を信じちゃう青い自分、
一人旅は無理と判断して、以後一人旅はやめたのだけど…。