我が子を良い先生と出会わせる為にやるべきこと
それは、先生を「先生」と呼ばせることだ。
ベテラン教員の大量退職を経て、若手の多い教育現場。
我が子を良い先生と出会わせたいなら
どんなに若く頼りなく見える先生も
必ず「先生」と呼ぶことだ。
子どもに「先生」と呼ばせることだ。
どの顔
人間は誰しも多面体。
先生だって、先生、という顔以外に
二十代の男子、女子という顔がある。
相手によって友人、同僚、恋人、子ども、孫、様々な顔を持つ。
我が子を先生のどの顔と出会わせたいのか?
親が先生を「〜くん」と呼び
子どもに先生の呼び捨てを許し、
「〜くん」と呼ばせる事には何のメリットもない。
引っ張りだすねぇ
思わず、自分のことを振り返る。
学生時代の塾講師バイト。
時給数百円レベルになるほど
授業準備して子どもたちの前に立ったのは
なぜだろう?
子どもたちが「先生、先生」と慕ってくれたからだ。
未熟な自分の中から精一杯「先生」を引っ張り出して、「先生」らしくあろうとしたからだ。
あの時、私から実力以上の「先生」を
引っ張りだしたのは、子どもたちだった。
保護者もそれを支えてくれた。
学校を出て、教壇に立った時
臨月近いの腹を抱えて学生の前で
歌い踊りながら講義が出来たのはなぜだろう。
実習前の学生が「先生、先生」と
頼りにしてくれたからだ。
「学生」と呼ばれたら
私の中からは「学生」が
「妊婦」と呼ばれたら
私の中からは「妊婦」が
出てきたのかもしれない。
力が足りない、身体が苦しい、
という悩みや甘えと共に。
でも、彼らは私を「先生」と呼んだ。
だから、私の中から彼らの前に
「先生」が飛び出して行ったのだ。
選択
勿論、誰に何と呼ばれようと
子どもらの前で先生であること、はプロフェッショナルの条件の一つだろう。
しかし一方で
子どもが先生を「先生」と呼ぶこと
それは出会う人から
どの顔を引き出して
付きあっていくのか
を自ら選択する経験の第一歩だ。
人が人と関わる限り、選択は続く。
子どもが、向き合う相手の何を見て
どこを引っ張りだすのか?
出会う人と互いに
良いところを引っ張り出しあいながら
進む人生への第一歩。
良い先生と出会う鍵の
少なくとも一つは
親の手のひらの中だ。
せんせ
崩壊して担任が休職したクラスを受け持つ
若い先生。
初めての担任で
奮闘する先生を
君付けや呼び捨てにする子どもら。
学校の廊下ですれ違った
呼び捨てする男子たちに
「先生、って呼びなよ〜」と
言って
娘に
「口開かないで〜学校来ないで〜
私の立場も考えてよ〜」
と言われた私だけど、、、。
やっぱり言うよ、
先生は「先生」と呼ぼう。