コミュ力が無くてもコミュニケーションは取れる
コミュニケーション力を付ける、という事がとても大事だと言われる時代。言われ過ぎる時代。
確かにコミュニケーション力は大事だが、本当にそれは誰にも常に必須なのか?コミュニケーション力重視と言われ過ぎて追い詰められている子はいないのか?
そして、コミュ力があったとしても常にそれを使わねばならぬ環境にいる必要があるのか。
最近、息子(中1)の友達の保護者仲間たちと話をして、そんな想いを強くしていたところにアナログゲーム療育をされている松本太一さんのツイートを目にした。
「特定の事柄に興味がある」とは「同年代の子が興味をもたない分野に興味をもっている、または他の子が興味を持つレベルよりはるかに高いレベルで興味を深めている」。だから友達の中で浮く。歴代仮面ライダーを知っているのは自慢になるが、元素記号をすべて記憶していても周りがついていけない。
— 松本太一@アナログゲーム療育 (@gameryouiku) June 29, 2018
こうした子どもたちとの関わりを通じて思ったのは、彼らが友達と上手くやれないのは、スキルや能力が欠けているからではなく、「同年代の子が理解出来ないような難しいことに興味がある」からではないか、ということ。
— 松本太一@アナログゲーム療育 (@gameryouiku) June 29, 2018
思わずコメント付きリツイートした
ヲタクだらけの男子中で、息子の友達のママ達が口を揃えて「小学校で友達出来なかったのに初日から友達出来て驚いた」と話してましたね。人に合わせるのが得意な息子も、今は素で誰と何の話をしても楽しいと。コミュ力無くても話が合えば問題ないし、コミュニケーション取れる。
— ぬまがみなこ (@numa37) June 29, 2018
こういうことはよくあると思う、という返し、そして私もよく聞く保護者サイドのコメントがあった。
こうした子たちの親御さんの多くが高度な知的産業に従事しており、「私も(あるいは、伴侶も)この子と同じところがあります。」と言われる。あるいは、「うちの会社にうちの子みたいなのがいっぱいいる。だから、うちの子がやっていける場所もどこかにあるんじゃないか」とも。 https://t.co/cfFJ7KhM5P
— 松本太一@アナログゲーム療育 (@gameryouiku) June 30, 2018
コミュ障という言葉が、小学生のあいだでも行き交う時代。
コミュニケーション力を育てることを考えるのと並行して、(一般的な)コミュニケーション力が無くともコミュニケーションが取れる環境を整えることももっと考えても良いのではないか、と感じている。