弱者のエゴも時には

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

バシッ、茶色い杖がすごい勢いで行く手をさえぎった。
エレベーターが開き、ドアの前にいた私が出ようとした時のことだ。
1番目の娘が生まれる3日前の話。
お腹ぱんぱん、よろよろと出かけた私、くたびれて家路についたところだった。
地下鉄のホームから改札階へ向かうエレベーターは、満員。
茶色い杖で、私をさえぎったのは、杖をついて歩く年配の男性だった。
「わしが先じゃ」
(わたしだ…)
お腹の前をとおせんぼした、杖の勢いの怖さより、
「自分がいたわられて、当然だ」という想いの強さを感じて
ぞっとした。
それは、10か月近く妊婦をやってきて
妊婦じゃない時に比べ、周りにいたわられる場面が多くて、
「今の自分は、弱いんだからいたわってもらうべき存在」
と思うようになっていた自分をその老人に見たから。
いつの間にか、自分の中に生れていた
「弱者のエゴ」
の醜さに気分が悪くなった。
以後、2人目の時も3人目の時も、
つわりで通勤電車を途中下車することがあっても、
妊婦マークのキーホルダーをもらおうとは思わなかった。
〈エゴもありかな)
自分の意思で環境を選べないという意味でも
「子ども」というのは、弱者の最たるものだけれど、
そして、「エゴ」のかたまりのようなものだけれど、
子どもを育てているうちに、
「自分がいたわられて当然だ」と
杖をかざした年配の男性の後ろにある、
歴史とか悲しみとか、をふと感じるようになり、
「弱者のエゴ」
が前面に出てきてしまう時期があるのも
それはそれでありじゃないか、
と思えるようになってきた。
その時、受け止められる人が受け止めれば良いのだから。
その時々で受け止めあえる家庭で、社会であれば良いのだから。
…ということで、
4人目を産むときは、妊婦マークでもつけようかな、
予定ないけどさ。